まだたった2回しかいってないフラメンコの唄、高橋愛夜さんのカンテクラスが
楽しくてしょうがない。
何を隠そうバイレフラメンコをやりはじめて17年になる。
本当に自分はこの踊りが向かないと思う。
上手くも巧くもならないし、舞台が近づくとひたすら憂鬱。
なんでこんなことやっているんだと、たまにどーんと落ち込むけど
でも、やっぱりレッスンに行ってしまう。
やらないとやらないで不安になる。
ま、一種の依存症なんだろうと思う。
先日ベリーダンスの発表会があってそれを観にきた夫から
『そのかっこ(いわゆる腹出しスタイル)になるなら、お腹の贅肉とったほうが
いいけど、あなたこっちのほうが(フラメンコより)ずっと向いてるよ。だって楽しそうだもん』
痛恨の一打である。
そんな私はフラメンコの柱である唄、カンテがどうしても好きになれなかった。
地唄のようなアクたっぷりの響きと節回しについていけない感じで、
好きでないものを"もっと音をかんじろ、かんじろ"言われても、
大嫌いなおかずでどんぶり飯3杯食べろ的なムリヤリ感が満載なのである。
しかしフラメンコ界にいる限り?これは口にはできない、
切支丹の踏み絵みたいなもんである。
当時諸先輩方が薦めてくださるどの伝統的名演奏も歯が立たず、
私はフラメンコとは仲良くなれないんだろうなあと思っていた頃、
アルカンヘルという人(この方、大天才です!)のライブにいって
カンテをこんな風に謳う人もいるんだぁと衝撃を受け、
まったくもって開かなかった私の耳にすこしだけ変化が起こった。
さあ、やっと本題だ。同様に日本人でカンテで私がステキ!♡と思えたのが
高橋愛夜さん。その彼女がなんと初心者に教えをするという。
日程がちょっときびしかったが雑用を調整し、初レッスン参加は6月のアタマだった。
レッスンは当たり前なんだが、結構いきなりひとりで唄わされる。
ひえ〜であるが、はいちゃったんだからやるしかないだろう。
これは意外なんだけど......、唄うって、すごい解放感だった。
ふだんは、本当はいいたいことを、言ってるようで多分ぜんぜん言えてないし、
それを気付くのを『ないこと』にしている自分がいる。
っていうか、言ってしまったら大惨事になるだろうから、
すごい勢いで我慢している。←え、それで!と思う人もいっぱいいると思うけどね。
ところが唄うと。
言いたいことは言えないけど、
我慢していることが少し溶け出して楽になってゆく。
詰まっていた肋骨が横にフワッっとひ拡がってゆくかんじ。
世間や自分の周囲に迷惑をかけない
平和的なムネにたまったモヤモヤの処理だったのでびっくりした。
もちろんこれが技術先行の唄のクラスであったら
こうはいかないだろう。
そこ、1から入って、とか、6のところでどーしてとか(スミマセン、わかる人だけわかってください)。
ここでは自由な感じに唄わせてもらうので、
決してぜんぜん好きじゃない自分の声を聴きながらの復習も、
それほど苦にならない。
ふと思いだしたんだけど。
先日友人がピンホール写真の個展を開催し、
そのスタートがもともとは写真セラピーだったというのに驚いた。
そこの師匠のやり方は、技術は後からついてくるから、
まずは自分が撮りたいように撮ることからはじめるんだそうだ。
数年ぶりに訪れた彼女の作品は数段の輝きと明確な
メッセージが(本人が意図したものではないだろうけど)伝わってきた。
ああ、思い出した。私のヨガもかつては技術志向で技術至高だったけど、
まずは自分の好きで気持ちよい場所を探そうね、って自分も言ってる。
だってそのほうが柔軟性もつくし、呼吸が深くなってリラックスするし、
確実に生徒さんもうまくなる。
そんなわけで、このクラスは私が今まで受けたもっとも気持ちよいアートセラピーなんだなって、
フラメンコのお勉強クラスにはしないぞっ、純粋に楽しもうって思えた。
もしかしてこのほうがフラメンコと仲良くなれる気がするだけどな。
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